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「カンボジア滞在記」
伊藤典男さん
(第7回SCHECカンボジア支援活動 05年11月参加)
私たち(杉戸中央ロータリークラブ、ロータリアン3名)は、平成17年11月23日、SCHECのメンバーに同行してカンボジアに行きました。主な目的は寄贈した井戸の視察とプローン村に杉戸中央ロータリークラブが建設した小学校の開校式に出席することにありました。23日から27日の滞在期間中の2日間を、カンボジア訪問日記としてみなさんにお伝えいたします。
2005.11.24(木)
現地時間で6時45分(時差2時間)であるが、日本の6時45分より明るく思われる。ホテルの窓から国道6号線を見ると、通行者の50%は自転車、40%が50ccのバイクである。なかにはバイクにリヤカーを付けてバイクタクシーとなっているものもあるが、ヘルメットを着装している人は皆無である。残りの10%は車(ほとんどがトヨタ)である。車の約半分は貨物車で、荷台には今にも落ちそうなほどの人が乗っている。この光景だけは日本の昭和30年代と似ていると思われる。通行者のなかでも圧巻は、子ども4人を1台のバイク(50cc)に乗せて走っていく母親。これを見たときは危険よりも生命力を感じた。
あっ、これもすごい!お父さん運転のバイク。後ろにお母さんが乗っており、その間に2人の子ども(2才〜4才)、まだまだ、お父さんの前のガソリンタンクの上にもう1人子どもが乗っているではないか。その上、ものすごいスピードで走っていく。日本のように坂道はほとんどなく平地である。ホテルの前は舗装してあるが、砂・土が多く、ほこりが立っている。
井戸視察で垣間見た、カンボジアの現実。
9時に3台のマイクロバス(日本で廃車になったもの)に分乗して、井戸(クラブで13本、全体で76本)の視察に出かける。カンボジアは長年、水瓶に雨水を溜めて利用してきた。なかにボーフラがわいていても、「ボーフラが生きているのだから飲める」とされてきたが、それはマラリアを運ぶ蚊の発生源になっていた。そこで我々は衛生的な30m掘り、地下水を汲む手押しポンプ付きの井戸をプレゼント(1本25,000円)したのである。
不衛生や生活インフラの不備もあり、平均寿命は男性52才、女性54才だという。ホテルを出発して5分もたてば、舗装はなくなり、赤土の道である。我々は乾季に来たが、雨季はすべって動かない時があるらしい(タイヤには溝がほとんどない)。
最初の井戸に出合った。井戸の後方にはスポンサー名が90cm×120cmの看板に書かれている。我々が訪問すると、井戸を使用している3家族が出てきた(3家族で1本の割合)。最初に出てきたのは3〜4才くらいの男の子であったが、肌着は付けていない。生まれたままの姿である。女の子は肌着を付けているが、本来の肌の黒さなのか垢なのか区別がつかない。この子どもたちを風呂に入れてタワシでこすってやりたい程である。我々が泊まったホテルの近くでは見られなかった光景であり、貧富の差が大きい国であることがわかる。
子どもたちに日本から持って行ったノート・鉛筆・ボールペンと風船を渡すと、喜んですぐ風船を膨らませようとする。その行為は日本の子どもと少しも変わらない。しかし、足元を見ると、靴は履いておらず、傷があり膿がたまっている子もいる(日本の子どもと大違いである)。ノートと鉛筆を持って我々が建てた学校に来てくれることを祈りながら、今日は36本の井戸の視察に当った。
開校式に参加。
子どもたちの目の輝きは日本もカンボジアも一緒。
11.26(土)
朝から晴れた日で、太陽の光線は容赦なく我々の肌を刺す。日本の8月の太陽と違い、皮膚が痛い感じがする。現地の人の説明によると、ホテルから学校までは70kmの距離であるが、マイクロバスでは無理で、4輪駆動車でないと辿りつけないほどの悪路であるらしい。車に乗って20分が過ぎると、現地人の説明が納得できた。難破船に乗った感じ、という形容詞がピッタリするほど揺れる。ホテルを出発して4時間でプローン村の学校建設地に着いた。
校門から教室まで約100mあり、沿道には日本とカンボジアの小さな国旗を持った中学生が迎えてくれた。テープカットをして小学校1年生の教室に入る。小学1年生とは思えない背の高い子どもが教室の後ろの方の椅子に座っている。6才から12才までと聞いて一応納得するが、何故12才で1年生なのだ?先生の説明によれば、今まで学校に通っていなかったからである。6年間の学習を終えて卒業できるのは、約3分の1であるのが現状である。
私が日本で塾を開校する時も、入塾生が同じ形で座っている。日本の子どもとカンボジアの子どもの目の輝きは変わらない。環境が違っても、子どもの目の輝きは同じである。子どもたちは、雨が降っても風が吹いてもこの学校で学ぶことができる。学校建設の資金を出した我々には、1つの目標達成であるが、これから学ぶ子どもたち500人の(500の)目標達成である。この小学校から、学者・国会議員が生まれ、豊かなカンボジアを興してくれることを祈りながら、26日の日記を閉じた。
カンボジアを訪問して、あらためて感じた
小学校校舎建設と井戸掘り事業の支援の重要性。
ポルポト政権時に国は乱れました。カンボジアが再度戦争に入ることはないと思いますし、あってはならないでしょう、この子どもたちのためにも。日本政府も最初の国民選挙に協力し、投票箱は日本のお古だそうです。また、当初、港のあるシアヌークビルから首都プノンペンまでの道路は日本の自衛隊が作ったと聞きました。
しかし、しなくてもいい援助をした隊員がいたことも聞きました。隊員と現地の女性の間に子どもができ、必ず迎えに来るからと言い残して隊員は帰国。その後何の連絡もないとの事です。私は沖縄の米軍と自衛隊を重ねて見てしまいました。母親と子どもは迎えを待ち続けて12年。収入もなく、行き先もわからなくなったようですが、あるジャーナリストが今回探したところによると、恵まれた生活はしていなかったそうです。以前、このジャーナリストは父親である隊員の実家(青森県)を訪ねて、月1万円の仕送りを頼んだそうですが、隊員の父母がガードして会えなかったそうです。隊員であるならば1万円の仕送りは、それほど困難ではないと思います。(カンボジアの学校の先生の月給は3,000円)1万円あれば母と子どもの衣食住は満たされます。隊員も最初は子どもを認めていたのに今は…
我々の知らないカンボジアがそこにはありました。観光地(アンコールワット)には日本人が溢れています。しかし、我々が行った電気もない、読み書きもできない地には足を踏み入れることもないでしょう。カンボジアの識字率は20%(5人に1人しか読み書きできない)です。国の復興は教育です。これからも小学校校舎建設(350万円で5教室)と井戸掘り事業を行いたいと思っています。この文章を読んでいるみなさんは幸せです。私は日本人に生まれ、子どもも孫も日本人であることの幸せを感じました。
最後に、私は18年2月28日に心筋梗塞になり、緊急手術を受けました。意識もうろうの中、カンボジアの子どもたちの目の輝きを見ました。そして手術は大成功でした。
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